安全サイドの論理(創作メモ)
2016.8.26 はじめに
主宰が22歳の頃以来、考えるもととなっているのは、三島由紀夫と吉本隆明の残した言葉である。
三島は、「正義の源泉を弱者に置くことは正義の根拠がなくなる」と「自由と権力の状況(1968)」で書いた。
一方、吉本は「大衆の原像」を論の出発に置いて論説を展開した。あたかもマイナス無限大をゼロとすると、全ての数値はプラスになるような論理である。
両者の、この二つの根拠は両立し得ない。しかし両者が残したその他の多くの言葉は、そうだなと思う事が多く、且つ両者とも矛盾していないと感じることがほとんどである。それは「安全サイドの論理」と呼べると長年思っているのだが、それは自分の言っていることが間違えていることがないようにするための態度ということになる。
安全サイドとは技術の分野で、手段が二つに分かれた時に、より安全になるほうの策を採用するという手法で、技術屋の世界では毎日のように使われる言葉だが、例えば機械が壊れないことと人が怪我をしないことのどちらを優先するかが対立することもあり、すなわち何の安全を優先するかが必ず全員一致しているというわけではない。戦後はおおむね人命の安全を最優先するコンセンサスが出来て、「安全第一の登り旗」はだれでも見たことがある風景となっているが、かつての戦争や、直近の原発事故を見るまでもなく、必ず「安全」が保証されていると楽観するのは甘い。
このメモでは、三島と吉本の残した言葉のうち、いつも頭を行き来している言葉をまず書き留める。子供の時の記憶の重要なものは、必要な時にいつでも引き出せているから書き留めなくても大丈夫と書き留めていない。同様に三島・吉本の言葉も書き留めて来なかったが、冒頭の矛盾は50年解けずに残っている。だから先ず、ほら、こういう風に安全サイドに書いているよと覚えている限りを例示する。覚えている量は大した事がないから、引き続き二人の文を読み直す。何度呼んでも発見がある本というのはあり、何度聴いても発見がある音楽があるのと同様、二人の文は毎回、そうか!と思うことがあるので、安全サイドの事例も増えて行くことと思う。それを続ける過程で、冒頭の矛盾に回答を与えられたらいいと漠然と思っているのだが、そこまで行かなくても安全サイドというのはこういうことだと知るだけで、安全サイドでない言説を見抜く役に立つ。ひとまずは創作メモを開始する。
2016.8.26 いつも頭にあること(どんどん追加・修正します)
三島由紀夫
・正義の源泉を弱者に置くことは、正義の根拠がなくなる。(自由と権力の状況(1968))
・ここで偉そうなこと言うでしょう。家に帰ったら、俺はそんじょそこらの文士とは違うんだと一生懸命書く。しかし次の日はそんな自分を見たくない。それはきのう寝た女の顔をみたくないのと同じだ。(人間と文学 中村光夫との対談)
・約束墨守(アンケートへの回答)
・・・・のクラウン、とてもいいでしょう。ピエロは自分がピエロだと言ったらピエロでなくなる。太宰が嫌いなのはそこです。太宰はいつも自分がピエロだと言っていた。そうすればどこかのご婦人が「いえ、そんなことはありません」と言ってくれると思っている。(人間と文学 中村光夫との対談)
・僕が天皇というのは、敵は本能寺にあるからだ、敵本主義で言うんだよ。(林房雄との対談)
・国防を語る座談で酒が出た。私はいい知れぬいやな気がした。酒を飲みながら国防を語るとは。(?)
・新婚初夜の席で、妻に自分の覚悟を告げると、妻は黙って短刀を差し出した。これで見事な黙契が働き、2度と妻の覚悟を質すことはなかった。(英霊の声)
・文化主義はあらゆる偽善を許し、岩波文庫は葉隠を復刻するからである。
・世の中は自分になど関心がないものだということを知ったあなたの文章は人の心を打つでしょう。(文章読本)
・私は与えられる批評を、作品の中で全て先取りしています。(朝日新聞インタビュー記事。1968頃)
・戯曲の中では、俺は本当のことを言っているのだと思える。
・この世で一番純粋な喜びは、人が喜ぶのを見て喜ぶ喜びだ。(華麗な表現という欄良王の書評。朝日新聞)
吉本隆明
・僕は君たちの味方であるとともに君たちの敵だ
・関係の絶対性
・指示表出・自己表出
・共同幻想・対幻想・個幻想
・彼の死は、結局作品の重さと比べられることになるだろう。しかし、彼の死は重いしこりを私の心に残して行った。私の感受性に普遍性があるならば、このしこりは彼が時代と他者に置いていった遺産であろ。(試行 暫定的メモ)
・僕は山本義隆を知りませんが、原子物理学というのは紙と鉛筆があれば出来るのだから、そんなことをするのはもったいないというか、やってしまえばいい。
・究極の左翼性とはなにか?
・いいことを言わない。悪口を言うくらいでちょうどいい。(真贋)
・自然過程・意識過程
・行きがけ・帰りがけ
・往相・還相
・吾妻鏡は時分に都合の悪いことも書いていて、信用出来る。(この逆は我田引水)
その他
・人は何かを引き受けないとだめになる。(よしもとばなな)
・二人にとっての共通の大事なもの(子供等)があること。二人同士で好き合うなど、大したことではない。(曾野綾子)
・女の人にやさしくバカ!と言われるのは最高。(磯部波男)
2020.11.25 三島由紀夫没後50年
我々は小学校中学校で100m走を経験しているから、道を見通して、あそこまで100mくらいという感覚を持っている。その半分の50mも同様にわかる。しかし200m、300mとなるとその区別はつかなくなる。仰角が小さくなって、角度の分解能が落ちるからだというのは工学的な説明だが、視点を高い位置に持って来るなどして200m、300m、あるいは1km、10km、100kmと地図の視点を持つことは可能である。
三島は、自分が理解されるのは100年かかると言っていたが、今年は三島が自裁して50年。ここまでの50年は、残された人間としては文字通り地を這うように生きて来たから、この50mが、どのような世の中であったかはよく知っている。それに対して三島がどう言うであろうかもよくわかる。しかしこれからの50年は実際に目撃することはかなわないので、50年の時点でこう考えていたということを残すしかすべがない。
三島は東大全共闘との討論で、「大正教養主義から来る知識人の傲慢を全共闘が打ち破った功績は絶対に認める」と延べ、「諸君が天皇とひとこと言ったなら、手を結ぶ」と述べている。
しかし、教養主義はなくならず、知識人は今なお大勢が闊歩していて、知識人予備軍を補充する受験産業はいまだに健在であり、それを支持している世の母親たちもまた健在である。
全共闘との討論は、敵の敵は味方で、お互いに相容れないことを知りながら討論を楽しんだところがあり、その後も「天皇」の問題は棚上げが続いている。
我々は、責任を取らない知識人を、原発やコロナ禍でいやというほど、目の当たりにしている。だから我々(全共闘)のやったことは無効に帰したということになるのだが、しかし三島の見ていない50年が全くだめだということにはならないと思う。毎日テレビで目にする、その後出た歌、歌手、お笑い、お笑い芸人は、知識人とは無縁の場所で生きていて、この50年は捨てたものではないと言ってよい。また産業の高度化は自然過程であるから、三島がどう思うだろうと考える必要はないところのものである。
ベートーヴェン生誕250年で多くのイベントが企画され、コロナで没になった今年だったが、三島の死後50年企画も同様であった。いくつかのテレビ番組を見ると、若い人が三島を読んでいるとか、ノーベル賞を川端康成に取られて落胆したとか放送されているが、「ノーベル賞を受賞したら拒否する。ぼくにも考えがありますからね」(出所不詳、捜索中)というのは反教養主義、反文化主義から来ていると思っていて、テレビの内容の浅さはいつも同じで、コメントする人達も、三島の回りをうろうろするだけのコメントしか出来ていない。
天皇については、「ぼくが天皇というのは、敵は本能寺なのだよ、敵本主義で言うんだよ(出所不詳、捜索中)」があって、西郷隆盛が政府主流を離れて反乱を起こしたのは、「自分が(西郷が)負ければ、不満分子も以後武装闘争はやめるだろうと考えてのこと」と同じと考えている。すなわち「三島以上のことが出来る右翼はいるか」と突きつけたものと考えている。
吉本隆明(以下吉本)は、暫定的メモ(三島由紀夫 河出書房1970.12月)の中で、「吉本が天皇についての解明の端緒をつかみ始めた時から三島は天皇と言い出した」と書き、「三島が自分を正確に見積もっていたならば、これは将来大きな影響となって現れるだろう」と書き、「結局、三島の評価は、彼の文学作品との計量として計られることになるだろう」と述べている。
吉本は死後、まだ10年経っていないが、NHK「100分DE名著」で「共同幻想論」が取り上げられ、若い講師が鳥の視点で解説し、よく読んでいるなと感心させられたのだが、三島も若い読者が大勢いるようで、地べたを這うという同時代の経験でなく、高い視点から評価することが出来るのだろう。
テレビの最後はいつも、「三島の死は謎に包まれている」で終わるが、これからの50年、少し高い地点からも考えてみることにしよう。
最後に、なぜ11月25日だったのかについて、吉本が「自分への当てつけか」と言っている。天皇の紀元を解明してくる吉本への対抗心からだった可能性がある。全共闘との討論でも、三島は「吉本の共同幻想論を著者の意図とは違う点で興味深く読んだ」と言っている。三島は老醜をさらすのはいやだと45歳で自裁し、吉本は「死なぬほうがいいのである」と言って86歳で没した。当時、この二人は直接対決することはほとんどなかった。結論を探すのは、我々の仕事である。
2020.11.24 20:06
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